貨客船ワラタ号失踪事件 (1909)
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ワラタ号は、1908年10月、イギリスとオーストラリアを結ぶ航路の航行を目的として建造された貨客船である。オーストラリア・ニューサウスウェールズ州の州花に因んで名づけられたこの船は、総トン数9,339トン、航海速力13ノット、総乗客数788人、当時における最新式の技術が用いられていたばかりか、イギリス・オーストラリア間24,000kmという長距離航行に備え、旅客設備・安全設備共に万全が期されていた。特に救命設備に関しては、全乗客・乗組員分の救命艇及び救命胴衣を備えていた程である。当時の広告は謳う。「最も新しい設備を持った、最も安全な船」と。 1909年の3月にワラタ号は無事処女航海を終える。そして、1909年4月27日、乗客215名を乗せ、ワラタ号は2度目の航海に乗り出した。オーストラリアのシドニーに到着し、同フリーマントル、そして南アフリカのダーバンで何の問題もなく補給と荷下ろしを済ませ、ワラタ号は7月26日午後8時、次の寄港地ケープタウンに向けて出航した。いたって順調な航海であった。 27日の昼、イギリスの貨物船クラン・マッキンタイヤ号が、ダーバン・ケープタウン航路を航行していた。この船はワラタ号が出航する7時間前、同じダーバンから出航していたのである。26日の夜の海は大時化であり、この頃には海も大分穏やかになっていたとはいえ、かなり波のうねりが残っていた。そんな海を掻き分けるかのように、一隻の客船がクラン・マッキンタイヤ号の左舷後方から近づいてきた。ワラタ号である。性能で勝るワラタ号は、クラン・マッキンタイヤ号を追い抜き、その際、信号を送っている。「ワラタ号、目的地ケープタウン、平穏に航海中……」。何の変哲もない、世界中の海で行われている、船舶同士のありふれたやり取りである。 しかし、この信号を最後に、ワラタ号は一切の痕跡を残さずこの世から消えてしまったのである。 27日の夜は再び荒天となったが、7月30日、予定より遅れたものの、クラン・マッキンタイヤ号は無事ケープタウンに到着した。他のケープタウンを目指していた船も、荒天を乗り越え続々とケープタウンに到着する……しかし、ワラタ号だけが一向に到着する気配が無かった。ワラタ号より小型で性能の劣る他船が、大時化を乗り越えケープタウンに到着しているにも関わらず、である。ワラタ号の到着予定は27日であり、無事ならとっくに着いている筈だった。 マッキンタイヤ号が到着した翌日の8月1日から、救難船は勿論、イギリス海軍の艦艇まで導入しての本格的な捜索が始められた。捜索範囲は徐々に広げられ、最終的に東経30度から東経97度、南緯30度から南緯45度、インド洋南部全域に及ぶ広大な海域が捜索範囲とされるに至る。しかしワラタ号そのものはおろか、破片の一つすら発見されることはなく、ついに1909年11月末、捜索は打ち切られた。 謎の失踪を遂げたものにありがちな話であるが、失踪の謎を巡って様々な噂が飛び交った。「ワラタ号は復原性に問題があった」、「南極まで漂流した」、「何者かに乗っ取られ、皆殺しにされた」……。いずれも他愛のない憶測に過ぎないものであったが、噂の矛先が「関係者がワラタ号の復原性不良を隠蔽した」という形でイギリス政府にまで及んだため、イギリスは専門家や大学教授等からなる調査委員会を発足、徹底的な調査を行った。1911年2月22日、委員会が取りまとめた調査結果は、次のとおりである。 「復元性の不良を証明するいかなる事実もなく、ワラタ号は荒天下で不可抗力な状況に陥り沈没したものと認める」 結局、復原性に問題があるという俗説は退けたものの、肝心の原因についてはお手上げという結論であった。ワラタ号に何が起きたのか、今なお不明のままである。 |
【考察】
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このワラタ号の事件は「オーストラリアのタイタニック」として西欧では広く知られているが、日本ではほとんど知られていない。しかし、自分にとってこの事件は極めて印象深い事件の一つである。これほど「失踪」「消失」という言葉が似つかわしい事件は中々ない。何せ、ワラタ号に何が起きたのか、推測する材料がほとんど残っていないのだ。 ■ 復原性問題説 失踪を説明する無数の説の中で根強くささやかれていたのが、「ワラタ号は復原性に問題があった」というものである。復原性とは、船舶が横に傾いた際、元に戻ろうとする性質のことである。復原性に問題があるということは、転覆し易いことを意味する。では何故こんなにも復原性問題説が取り沙汰されたのだろうか。 実は、ワラタ号に復原性問題があるというのは、急に振って沸いた話ではなかった。後に判明した事であるが、ワラタ号がスコットランドからロンドンに回航する際、かなりの荒天に見舞われており、当時一時的に乗船していた経験の浅い航海士が、その時の経験を大げさに吹聴したのである。根も葉もない噂ではあったが、この取るに足らぬ噂が何故か定着してしまった。おかげでワラタ号は関係者の困惑をよそに再検査を行う羽目になり、2回目の航海(最後の航海である)が一ヶ月も遅れている。こうした過去があったため、失踪後、復原性問題説が蒸し返されたのである。 それにしても、根も葉もない噂を相手にして再検査するなど、普通であれば考えられない。関係者に再検査を余儀なくさせるほど強力な噂である。ワラタ号には何かそういった不安を感じさせる要素があったのではないか? 今、手元にワラタ号の写真がある(今はページが消えている海外のサイトから入手したものであるため、紹介できないのをご容赦頂きたい)。この写真を見た時、私は復原性問題が取り沙汰されるのもむべなるかなと感じた。船首の辺りが随分傾いているように見えるのだ。どうもワラタ号の容姿はバランスを欠いている――不安定なように感じてしまうのである。私だけではない。2度目の航海時にダーバンで下船したClaude Sawyerという技師が、妻に宛てて電報を発している。「ワラタ号は頭でっかちに思える。ダーバンで下船」。 私は船の専門家ではない。ワラタ号の見た目がどうあれ、実際は十分航海に耐えうるものだったに違いない。それは噂が流れた当時の再検査、及び失踪後の委員会の調査でも、ワラタ号の構造に問題が認められなかった点から明らかである。しかし、私のような素人が一目見て抱いた「頭でっかち」という感想を、当時の一般人(=素人)も共有していたのではないか。少なくともClaude Sawyerはそう感じている。となれば、復原性問題説が再三唱えられるのも、いかにも素人考えとしてはありそうな話である。(ただし、個人的感想を一般化することの愚については承知している。あくまで一つの感想に過ぎないと断っておく)。 なお、ダーバンで下船して幸運にも難を逃れた Claude Sawyerであるが、話をとかく超自然的なものに結び付けようとする人にとって興味深い材料を提供している。その後の下船した理由を問われ、不吉な夢を見たからだと答えているのだ。夢の内容は、先述のサイトでは「大波を受けて転覆した」という平凡な内容となっているが、Wikipedia英語版のワラタ号の記事によると、「長い血まみれの剣を持った男のヴィジョンを見た」となっている。一体どちらの記述が正しいのか不明であるが、個人的には、単にClaude Sawyerが適当な事を語っているだけのような気がする。後からであれば何とでも答えられよう。 ■ Without a trace ワラタ号の失踪の特徴は、文字通り何の痕跡も残っていないことである。真実だろうとデマだろうと、失踪後の様子を伝える何かしらの情報があれば検証により真相に迫ることができよう。しかし、ワラタ号にはそれがない。度重なる捜査にも関わらず、船体は未だ残骸すら発見されておらず、ましてマリー・セレスト号事件のように、無人の船内の状況が伝え残されている訳でもない(もっとも、マリー・セレスト号事件の話の大半は作り話であるが)。 無線は無かったのだろうか? ワラタ号は最新鋭の設備を備えていたが、無線通信設備を欠いていた。今となっては船舶に必須と思われるこの装置も、当時は船舶への装備には賛否両論があった。無線通信設備が一般的となったのは、奇しくもワラタ号が失踪した年と同じ1909年、リパブリック号という船が事故を起こすも、無線で救難信号を発したことにより付近を航行中の船舶の応援を得、大惨事を防いだという事例があってからある。ワラタ号の最後の航海が後1年遅ければ、と思う。 失踪の説明は幾つかある。荷崩れ、横波……そうした理論上可能な説明の一つが、恐らく真相なのだろう。近年では「突発的巨大波浪」(freak wave)により遭難したとする説が最有力のようである。しかし、あらゆる痕跡を残さず消えたワロタ号である。どの説も今となっては、どこまで行っても確からしい仮説に過ぎない。ワラタ号は荒天の海に消えた。確かな事実はこれだけである。 失踪者と、残されるもの。両者を結ぶ要素が、このワラタ号の事件には何も残っていない。我々はいずれ納得できる説明をつけて失踪を理解するだろう。一方、それはそれとして、ワラタ号はただ消えたという事実のみ我々に提示し続ける。両者の間には海が広がり、それは静かで広く、どこまでも深い。両者を結ぶ新しい何かが発見されない限り、我々は海岸からその海をぼんやりと眺めるしかないのだ。 |
【参考文献】
大内建二 『交通ブックス213 海難の世界史』 (成山堂書店)
Wikipedia英語版 「Waratah (ship)」の項
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